昭和45年10月6日 朝の御理解
X御理解第53節
信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。
信心すれば目に見えるおかげより目に目に見えぬおかげの方が多いと、ところが目に見えるおかげすらも、おかげをおかげと感じきってない事がたくさんあるようです。まして目に見えぬおかげが感じれれる訳がない。目に見えるおかげをかげと感じれれるおかげを頂かなければならない。
ところが仲々本当にそれをおかげと感じとらせて頂くという事はやはり難しい事、まして目に見えぬおかげをその目に見えるおかげから、ずーっと深ぁく考え合わせていきますと、本当に神様の底の知れぬお働き、底の知れぬ程のおかげを何とはなしに心に感ずる事が出来る。
それが、いわゆる深い有り難さというですか、本当に言葉には表現は出来なくても、有り難いことだなぁともったいない事だなぁという、もったいない、有り難いという世界が広がっていくという事になるわけです。
いわゆる深い祈りと、こうもうしますが、深い祈りというのは深ぁい祈りに入っていく、自分ながら何とも言えん有り難さですけれども、そういう深い祈りとか、深い願いとか、又は深い神様のお計らいといったようなものが何とはなしに感じとられるところに、信心の妙境といったものがあるんじゃないでしょうか。 何かお願いをした事がおかげを受けて、おかげ頂いたというおかげというのは、非常に浅い感じが致しますですね。
昨日、伊万里の安藤さんのお立ち日というので慰霊のお祭りをさせて頂いたんですけれども、例えて申しますと、庭にかけしがひいてある。そこに水がいつもずっと落ちている訳ですけれども、その落ちておる水の音を聞いて、ここの例えば座敷なら、座敷に招き入れられた人が、ここには水がいいてあるなと音がしておる。その音を聞いて何とはなしに深い思いに浸る事が出来ると。
それが水はずーっと出よってもです、音がないと。それが分からない。おかげはずーっと頂きよっても音があるところにその音につれられて、かけしの水がでているんだなと分かるように、それはそんならちょっとした工夫なんです。出すぎても音が出らんのですよね、それから出すぎなくても、今度は又音が出ない。
そこの調子がね、私のこの控えの所なんか、昼でもずーっとあそこへ座っておると、かけしから水が出ておるなぁと感じられます。
とりわけ、私が朝の御祈念に出て参ります前に、小さい電気がひとつだけついておる、深な雰囲気の中にかけしの水の音を聞いておりますと、そのかけしの水の音につられて、深い思いが湧いてくる、それに浸る事が出来る。というようにですね、やはりそこんにきは演出ですけれどもやはり工夫が要るんです。頂いておるおかげを分からせて頂くことの為の工夫が要る、目に見えない。・・・
そこんところに、いわゆる目に見えるおかげの水というのはずーっと流されておる。これが、まあ見えるおかげですよねぇ。開けて見れば、はあ水が落ちて要るんだなぁという事が分かる。
けれども今度は、部屋の中におっても分かる為にはやはりそこに、掛け石から落ちておる水の音が聞こえなければ分からない。しかもその水の音を聞かして頂きながら、深い思いに浸る事が出来る。そこにお水が流されてきておる、そのお水を通して深い思いをすることが出来るという訳なんですね。やはりそこには工夫がさらされなければならない。
私は思いますのに、本当に信心をさせて頂いて、お願いをしておかげを頂くという事はおかげと感じれても、そこまで至ってくる神様の働きというものはそのおかげの中から感じとらせて頂くという事は、いわゆる神様の本当にこういう働きをいつもなっておって下さる。それをこちらの心次第で、キャッチする事が出来るのだと、こういうおかげを神様はいつも私共の上に送って下さってあるんだと、それをうかつにしておって、キャッチできないのだ、頂けないのだ、もったいない事だと。
そこで自分というものをいつもおかげの受けられる状態にしておかなければならないということになる。
今度の御本部参拝のどの辺の所だったでしょうか、みんなはもうほとんど寝静まってしもうておりました。山口当たりの小さな駅でした。そしたら文男さんが一人起きておりましたから、私が眠らんでおるものですから、話し相手に来てくれたんです。それでいろいろはなしておる間に「おビールが飲みたいですなぁ」と私がいうたら小さい駅にちょっと止まりました。
そしたらああいう小さい駅に売り子さんがおるはずもないのに、丁度目の前に来とるんですよ。それからガラスをたたいて「ビールがありませんか」と言うたら、一本だけあるのですよ。本当にそこにビールが飲みたいなあというたら、もうそこにビールがあるんだという事なんですよ。
まあそこ迄はおかげ頂いたでいいでしょうけれども、その後の私の心の中に神様の深い働きに触れさせて頂いて、有り難いと思う心はもう何時間も何時間も続いておる。もう久留米でおります時にそのビールの缶をね、持って帰りたいようなおもいがする。勿論持って変える訳じゃないのですけれども、問題はその思いなんですよ。
夕べは壮年会でしたから、お茶に飴湯がでました。昔なつかしい飴湯です。それが私が先日のお月次祭の時に昼、昔私達が子供の時に飴湯というもんを売りよった、今日はどういうもんか飴湯を思い出してから、一辺飴湯を飲んでみたい、あれは冷たくてもおいしい、熱くしてもおいしいもんだ、というて私は公子さんと話よったです。
そしたら月次祭が済んでから、公子さんがけたたましゅう、親先生、親先生飴湯のお供えが下がってきとりますと言うのですよ。飴湯の素という丁度黒砂糖のようなものが、それを熱湯で溶かせば、飴湯になるというのです。
その事を昨日は話した事ですけれどもね、本当にもう言うなら、何十年振りに思い出したような飲み物なんです。
それでも飴湯が飲みたいなあというたら、飴湯がそこに来ておるという事。もう本当にそういうおかげをね、いつでも私は頂かせて頂ける、そこに不自由することのないおかげの頂けれる、いうなら世の中に私共は生を受けておる。おかげというものは私共の周囲にいっぱいあるのだと、必要なものが必要に応じて、それを只、私共が只目に見えるおかげの所だけはおかげというけれども、その深い深い神様の働きの所に触れようとしないから目に見えない、おかげというのが分からないし、深い有り難さというにも触れられないでおるといったような事がたくさん有ろうかとこう思う。
私は今朝からその事を思うたんですけれども、願いの信心と、願いということのその深さというか。
黙って願っておるというか、神心で願っておるというかそういう私は願いというものは非常に深いものに触れていくことができる。
昨夜、上野先生が御結界についておる時、「じねんふとく」といただきましたと、それで時に現すとどういう風になりましょうかというて尋ねてくるのです。 それで私はこうじゃなかろうかと「自念不徳」自らを念ずる自らを祈ると。そしたら上野先生はこの事を頂いて自分は慈念という感じでした、とこう言う。それは自念と慈念とは合い通ずる事でしょうねと云うて話した事でした。
いわゆる今、私が申します、本当に神心で祈るとか、黙って祈るとかいう、言うなら条件のない祈りということ。いわゆる今言われておる願いと言うこと。条件の無い願いというような事だと、私は思う。
だから本当に信心を深めていく、もう本当に誰彼の事を一生懸命に願われると、ところがその願っておる片っ端からです、私がこれだけ願ってやっておりますといったものがチラチラとのぞく。
ですから願われておる者は、それに応えてくれないと、私がこれだけの願っておるのに、といったようなものを感ずるのは、不徳のせいだと。
だからこれをあんたがそこのところ迄出来るもんねと、私がいうのですよ、もう一生懸命願ってやる、これは有り難い事、けれどももう一段深めなければ信心を、いわゆる慈悲の慈にならなければならない。その慈しみというですか、そういう祈りというものが出来るところに、私は不徳ではなくて、徳を受けていく、神心になるということだとお話ししたことです。
これは誰しもの心の中にも、やはりよく念っておるとか、願っておるというけれども、そこに不純なものと云うか、いわゆる人間が人間を祈っておると、人間が人間的な事を願っておる。というのであって、自ずと心の中から、神心が湧いてきて、その神心が祈りになっておると云うようなおかげにならなければいけない。もう一段、信心を深めていけと云うことだなと云うて話した事です。
これも昨日、久富繁雄さんが、本当に心温まる発表をしておられました。
昨日ここから帰らせて頂いたら、誰もいない、丸栄に行っておる娘さんが一人で留守番をしておる。お母さんは親戚にお見舞いに行ってある。お兄さんはというたら親子三人で市場に野菜出しに行っちょると。そうかと云うて少し疲れとるから一時間ばかりお父さんは休ませてもらうからと云うて裏で休んでおられた。
そしたら、国雄さん達が帰っていたらしいです、そして嫁の桂子さんが「ただいま、カズエちゃんお世話様でした」と云いながら入ってきた。そしてツーッとお座敷さへ、上がってから、ポンポンと拍手打ってから、神様を拝んで又降りていくのを自分の寝間の方から聞かして頂きよってから本当に有り難かったというお話なんです。
信心せろと言うたってしやせん、それが薬ではようならん、という事がわかっとってもお参りしてお願いせんの、と言うたって言うこときかん、本当にその事をもうどうしなさい、こうしなさいと言いもせんのに、勿論、嫁の事ですから黙って願っておる訳ですよね。
その黙って願っておるところの中に、私はこの慈念不徳と言う、そういう親の祈りというものが、嫁にかけられておる。そういう願いがそのようにしてでてくると言うか、そういうおかげになって表れてくる。
もうそれはね言葉には、表せない程しの深い深い有り難さなのです。又それを聞いておって私共も本当に心が温まるような話なんです。ですからそれまでに神様がお育て下さる事の為には、いろいろな事件もあれば、事もあったであろう、その都度に本当に桂子さん、あんたがそげなこつじゃけんと言いたい事も随分とあったろう。けれどもそういう事柄の中にひとつも言うとらん。只そげな事では嫁が助からんという願いが、親としてのそういう黙っての祈りが、願いがね、そういういわゆる深いものに、深い神様の働きがです。そういう風にして表れて来るんだという事になるんじゃないですか。だからこのところもひとつ今日の御理解の中から私共の信心の上に頂きたい、目に見えない神様の働きがずーっと嫁ごの上にいろいろ表れておる。又はそういう原滝を神様はして下さっておる、そこに表れた時に、それを本当におかげと。いわば嫁ごが神様にお礼をしよるのを後ろから拝みたいような思いがすると言うようなおかげになってくる訳なんですね。 あれもおかげであった、これもおかげであったとそ今ところを段々繰り返させて頂いておるうちにです、もうここではね、彼もという事ではなくて、これもおかげであったと、私共が分からせてもらう時に、私共は信心させて頂く者の本当のいわゆる真の信者じゃとおっしゃっておられる事なってくる。
これもおかげ、そんなら現実のその問題、それはそういう事をして、そんなことでと、例えば不平不足をいいたいならばその悪う思いたいようなその事柄もです、やはり神様の深いお働きの表れであると、そこに感じさせて頂く時にその事も又、有り難い事になってくる。
もうどうしますか、こんな事でと例えば家内が言うたときに、神様のおかげじゃがと、神様の御都合じゃがと言える主人にならせて頂かなければならぬ。
それは反対の事云うても言い訳なのですよ、そこにどうしますかという事はない、それもおかげじゃがといえれる、そのおかげこそが目に見えぬおかげなのです。その目に見えぬおかげをおかげと感じておる。又は目に見えるおかげですら、私共は感じきっていないような場合もある、神様をそこ迄おかげが来とるのにおかげとキャッチしきらんでおる。
そういう霊妙不可思議な神様の働きを私共の日常生活の上に、つながりをそういう深い意味で持たして頂いておる事が分かる生活、そういう生活を本当の信心生活でしょうから、それ真実の信者じゃと。最後に云うておられる真実の信者という事になるのじゃないでしょうか。
もう本当に困ったことですと、その困ったことをお願いをしておかげを頂きましたと言うて、初めておかげと気付かせてもらうと言うのではなくて、その困ったことではないという事なんだ。彼もおかげであった、これもおかげであったと言うこれもおかげと分からせて頂けるところ迄、信心をひとつ深めなければならない。
その為にはね、私共が様々な信心のひとつの工夫というものがなされなければならない。もうおかげは限りなしに、ずーっと掛け石を伝うて流れて来ておる水のようにあっておるんだから、見ればおかげと分かるけれども、音がないから見えない所からでは、それを掛け石の水と感じきらない。
そこで演出をする、工夫をする、そこからその水の音が何とも云えん、云うならば深い思いに人間を導いてくれる働きを、その音がしてくれる。
掛け石があるんだな、おかげというのはいつもこんなに流れておるんだなと言う、例えば私がそのひと時のような感じというものがいつも自分の心にいただけとる。 水はずーっと流れておるけれども、音がなかったら、お恵みの水を頂いておることをちゃんと忘れてしまう。
けれどもそこには掛け石を伝うて落ちておるその水の音がしておるので、その水の音を聞きながら、その音に深い思いとか、深い祈りとかに入っていく事が出来る。
そこに気付かなかったおかげをおかげと気付かせてもらい、いわゆる彼もおかげなら、これも又おかげであると感じとらせて頂くことが出来る。
そこに本当の信心生活のいわば妙境があり、いわゆる真実の信者じゃとしての値打ちがそこにあると思うのですね。 どうぞ